数学の魔術師|ラマヌジャンの生涯を1分動画とブログで解説

ラマヌジャン 自然科学
「数学の魔術師ラマヌジャンって何者? どんな理論を作った人?数学ってなんだか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

ラマヌジャンはインドのバラモンという階級出身の数学者で、タクシー数などが有名です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の内容

1.ラマヌジャン(インド編)

数学の魔術師|ラマヌジャンの生涯を1分動画とブログで解説

1887年、南インドのバラモン(インド全人口の4%、ヒンドゥー教上位のカースト)の家庭で生まれます。5歳の頃は、先生を毛嫌いして、登校拒否を繰り返した問題児でした。また「一番最初の人間って誰?」、「雲と雲の距離はどのくらい?」といった疑問を周囲に問いかけていました。
バラモンの教えは厳しく、彼は厳格なベジタリアンでした。また最下層カーストの人間に触れられることは、糞便に触れたり、悪臭を嗅いだ時に感じるときの不快さと同じくらいの自然のものとなっていました。

1897年11月(ラマヌジャン10歳のころ)、英語、タミル語、算術、地理の初等試験を地区最高得点で合格して、英語の高等学校入学します。
ラマヌジャンの両親は大学生に部屋を貸しており、その大学生達にラマヌジャンは数学を教わります。数カ月もするうちにラマヌジャンに教えることはなくなり、「大学から〇〇という本を借りてきて!」と大学生にお願いするほどでした。
14歳にもなると、同級生どころか、先生もラマヌジャンの話をまともに理解できませんでした。

1904年(ラマヌジャン17歳のころ)、町立高校を卒業したラマヌジャンはクンバコナム官立大学に入学します。
しかし、彼は数学以外はサボる不良学生になってしまい、奨学金資格が剥奪されると家出するようになりました。もちろん大学は中退せずにいられませんでした。

1906年パシャイアパ大学に入学して再度大学資格を取ろうとします。数学の才能は教授も舌を巻くほどでしたが、必修である生理学で解剖の授業があり、それがベジタリアンのラマヌジャンには受け入れられませんでした。結局単位が取れずラマヌジャンは再び大学を退学します。
その後、ラマヌジャンは家庭教師として雇われますが、テストの点が取れるような授業ではなく、数学の本質を教えるような授業をしてしまい、結局意味がないので、クビになってしまいます。
そこから5年間ニートのような状態で、ひたすら数学と向き合います。
その後、港湾事務所で勤務することができ、1909年(ラマヌジャン22歳のころ)には結婚もします。

またラマヌジャンはベルヌーイ数に関する論文を出して、徐々にインド数学界で有名になります。

1913年、ラマヌジャンは英国ケンブリッジ大学教授ハーディに文書と数式を書いた手紙を送ります。その手紙を見たハーディは手紙の内容が頭から離れません。なぜなら手紙にあった公式のほどんどが、数年後に「ロンドン数学協会報」などの学術雑誌に取り上げられるほどだったからです。
そしてハーディはラマヌジャンをなんとかケンブリッジに迎えたいと、ロンドンのインド省へ伝えました。しかし、バラモンという身分が海外渡航を禁止していたため、ラマヌジャンはイギリスに行くことはできません。
そんな中、ラマヌジャンの母親がナマギーリ女神がラマヌジャンの渡航を許すという夢を見ます。ナマギーリ女神とはバラモンの神で、ラマヌジャンの数学の着想もそのナマギーリ女神の教えだと言っています。

2.ラマヌジャン(イギリス編)

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そしてラマヌジャンは1カ月の船旅でイギリスに到着して、ハーディとの共同研究が始まります。
ラマヌジャンは当初、証明とは何かという概念がなく、直感で定理を思いついており、厳密性に執念を持っているハーディにはよく指導されました。その結果、ラマヌジャンの研究成果が名だたるイギリスの数学史に掲載されます。
ケンブリッジに来て3年間、ラマヌジャンは数学以外のことを忘却しました。30時間ぶっ通しで研究して20時間睡眠をとることもありました。

そんな順風満帆に見える彼の研究生活にも陰りが見え始めます。
オックスフォードの研究では、インド人留学生の健康は自然法則のように、2年目から3年目にかけて悪化するという報告がありました。その法則に従ってラマヌジャンも結核になってしまします
ラマヌジャンはベジタリアンであることや、数学に没頭していたこともあり、1日か2日に1回しか食事をしませんでした。さらに1915年の第一次世界大戦による食料危機、孤独と過労、英国の気候によりラマヌジャンの病気を悪化させ、入院することになります。

お見舞いにきたハーディは「乗ってきたタクシーのNo.が1721でつまらない数字だった。別に縁起が悪いわけではないが…」とややがっかりした表情で述べました。するとラマヌジャンは「そんあことありませんよ。とっても興味深い数字です。2つの立法和として2通りで表せる最小の数ではありませんか。」と言いました。
これを説明すると、例えば35は23+33です。しかしこれ以外の〇3+〇3では表せません。しかし1729は123+13と103+93の2通りで表すことができます。このように〇3+〇3を2通りで表すことのできる、1番小さな数が1729だとラマヌジャンは即答したのです。これが有名なタクシー数です。
やがて戦争が終結、そして体調が少し回復したラマヌジャンはインドに帰ります。
1919年、インド数学協会詩はラマヌジャンが帰国のニュースをトップ記事に報じるほどでした。
しかし、帰国してから2年後、享年32歳でラマヌジャンは亡くなります。亡くなる4日前まで数学を解いていました。

参考文献について知りたい方は無限の天才

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