原爆の父|オッペンハイマーの生涯について解説

原爆の父|オッペンハイマーの生涯について解説 物理
原爆の父|オッペンハイマーの生涯について解説

「オッペンハイマーって誰? オッペンハイマーの生涯を知りたい。オッペンハイマーの理論や功績って何? 物理学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)は「原爆の父」と呼ばれるマンハッタン計画の中枢にいた人物です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

オッペンハイマーの生涯

オッペンハイマーの生涯

オッペンハイマーの生涯の研究者時代と第二次世界大戦時を解説します。

研究者時代

ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)は、ドイツからニューヨークに移住して財産を築いたユダヤ人の父とパリで絵画を学び、ニューヨークでアトリエを開いたこともあるユダヤ人の母との間に生まれました。メイドや執事、運転手などがいるほど裕福な家庭で育ったオッペンハイマーは名門校に通い、科学、数学、語学で能力を発揮します。オッペンハイマー最終的に6ヵ国語を操るようになりました。ちなみに大きくなったオッペンハイマーは身長190cmにもなりました。
オッペンハイマーはハーバード大学に入学する予定でしたが、大腸炎を患い、予定より一年遅れで入学しました。大学の一般講義が退屈だったオッペンハイマーは化学を専攻していたのですが、1年次に大学の図書館で物理学関係の書物を読みあさって、入学8ヵ月で物理学の教授に大学院課程の聴講を求める手紙を出し、それが許可されます。その後、4年制大学を3年間で終え、化学の学士を取得するとケンブリッジ大学で実験物理学を専攻することになりました。しかし、そこでの研究は順調にいかず、ハンダ付けもできない不器用さに苛立ったオッペンハイマーは、壁に頭を打ち付けるなど異常な行動を行い、精神科医に通うことになりました。
その後、オッペンハイマーは、ハイゼンベルクの行列力学の論文で興奮を覚えたこともあり、実験物理学を諦め、量子力学に転向しました。しかし量子力学の研究は過酷で、オッペンハイマーは突然叫び声をあげたり、失神したり、精神科医からは治癒を投げ出されたこともあります。
オッペンハイマーはがノーベル賞を逃したのは、幅広く研究を行い過ぎた点があります。例えば、1927年に情報工学、物理学の基本概念であるボルン = オッペンハイマー近似という、量子力学を分子に応用させた理論を提唱しました。他にも、1939年には理論的に中性子星とブラックホールの存在を理論的に予言しました。これは1967年に中性子星パルサーが発見されたことで、注目を浴びたのですが、オッペンハイマーはその年に亡くなっており、もし1970年代まで生きていたらノーベル賞を獲得していただろうと言われています
アメリカに戻ったオッペンハイマーは、カリフォルニア大学とカリフォルニア工科大学の准教授をかけ持ちすることになります。当初、彼の講義内容は難解すぎる上、口ごもりがひどく、指導員としては評判は悪かったです。しかし、彼の溢れる物理への情熱、美術・哲学・文学など幅広い知識さにより、講義を2度聴講する生徒も現れます。
オッペンハイマーは心理学の博士課程にいたジーン・タ トロックという女性と婚約や破局を繰り返しながらも三年ほど交際しますが、躁うつ症を患っていたので、2人は苦しんだ挙句、破局しました。その後、オッペンハイマーは共産党に入っていた過去があるキャサリンという女性と結婚し、男の子が産まれます。しかし、キャサリンはアルコール依存症で、またしても2人は苦しみます。

第二次世界大戦時

第二次世界大戦時、アメリカでは原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」がスタートし、オッペンハイマーは38歳で原爆開発研究の新研究所所長に抜擢されます。
まず、オッペンハイマーは優秀で適切な人材を確保して、短期間で7部門、6,000人という大規模集団科学者集団を組織します。当時190cmで65kgともともとやせ型でしたが、このプロジェクトにより休まず働くき50kgにまでやせ細ります。
そして1945年7月には人類初の核実験であるトリニティ実験が行われます。実験は成功し、オッペンハイマーは「今、われは死となれり。世間の破壊者となれり」と言いました。またオッペンハイマーは原爆が広島・長崎に落とされたあとの惨状を見て「物理学者は今こそ罪を作った。もはや二度とこの軛(くびき)から逃れることはできない」と罪悪感に苛まれたようです。
原子爆弾が戦争を終結させたと考えたアメリカ国民により、「原爆の父」と呼ばれオッペンハイマーは一躍国民的スターになります。その一方で二度と核兵器開発に関わろうとはせず、人類に核兵器が使われることを阻止しようと政治的にも尽力していました。その後、水素爆弾開発を主張するエドワード・テラーらに対し、オッペンハイマーは反対しました。しかし、オッペンハイマーに対して 「ソ連のスパイ」という嫌疑がかかり、聴聞委員会が開かれることになります。 元共産党員の彼女や水爆推進派のテラーらの証言から「有罪」の判決が下ります。
その後、オッペンハイマーはプリンストン高等研究所所長に再任されるものの、 ひっそりと暮らすことになります。再び表舞台に登場したのは、死の四年前にフェ ルミ賞を受賞したときでした。因頭ガンに冒され62歳でなくなります。

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