人間のフリをした悪魔|フォン・ノイマンの生涯を解説

フォン・ノイマン 自然科学
「フォン・ノイマンって誰? フォン・ノイマンの生涯を知りたい。 フォン・ノイマンが原爆を作ったの? なぜフォン・ノイマンは人間のフリをした悪魔って言われるの? 物理学ってなんだか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

フォン・ノイマンは生涯の53年あまりで、論理学、数学、物理学、化学、計算機科学、情報工学、生物学、気象学、経済学、心理学、社会学、政治学に関数150の論文を発表した天才です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

フォン・ノイマン(少年期)

フォン・ノイマン(少年期)

ノイマンは1903年12月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで生まれました。
ブダペストはロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、サンクト・ペテルブルグに次ぐ、当時ヨーロッパ第6の都市でした。

6歳なったノイマンは、ノイマンの家のパーティで、パーティに着た客が適当に開いた電話帳のページを数秒で暗記するというゲームを披露しました。客がその開いたページに書かれている氏名を言うと、ノイマンはその電話番号と住所を答えたのです。
8歳になるとノイマンは歴史に興味をもつようになり、父親の部屋にあった「世界史 全44巻」を母国語ではないドイツ語で読み通しました。特に南北戦争はお気に入りで、後にアメリカの古戦場に訪れた際は、その章をそのまま暗唱しました。このようなノイマンの「1度読んだ本や記事を一言一句たがわずに引用する能力」は、生涯にわたり続きました
10歳になると、ギムナジウムに入学します。しかし、10歳の数学のクラスでは簡単すぎるので、最上級の17歳のクラスに入れられますが、それでもノイマンには簡単すぎ、ブダペスト大学数学科の講義を受けるようになります
12歳になったノイマンと後のノーベル賞受賞者で、1歳年上だったユージン・ウィグナーがある日、一緒に散歩をしていました。ウィグナーはノイマンに「おもしろい定理があるだけど、証明できるかな?」と尋ねました。それはウィグナーには証明できない数論の難解な定理でした。するとノイマンは「この定理は知ってる? 知らないか…。じゃあ、あの定理はどうかな?」とウィグナーの知っている定理をリストアップしてきます。そしてウィグナーの知っている定理のみを補助定理としてその難解な定理を証明したのです。ウィグナーは自分が証明できないものをいとも簡単に、しかも自分の知っている知識だけで解かれたのです。この日以来、ウィグナーはノイマンに劣等感を抱きます。

1921年、ノイマンが17歳の時、他の数学者との共著で、「ある最小多項式の零点位置について」という初めての論文を発表します。
ノイマンの父親は「数学では稼げない」と考えており、化学こそが人類の生活を向上させるという「化学ブーム」の影響もあって、ノイマンにベルリン大学応用化学科への進学を勧めました。そこでノイマンはベルリン大学応用化学科とブダペスト大学大学院数学科の試験を受け、両方とも合格して、ダブルスクールとなります

しかし、1920年代のワイマール共和国(ドイツ)は第一世界大戦による膨大な戦争賠償金を抱え、各地でストライキや暴動が頻発し、外貨を狙う酒場や風俗店が溢れていました。そのような治安の悪さを危惧して、ノイマンの父親は1923年に、ノイマンをベルリン大学応用化学科からスイス連邦工科大学チューリッヒ校に編入させます
ここでノイマンは実験中に別のことを考えていて上の空になっていたため、数えきれないほどのフラスコを割ります。ノイマンが壊した実験器具の請求額は歴代最高記録になり、長年破られることはありませんでした。
ノイマンの凄いのはベルリン大学応用化学科で講義と実験をこなしながら、ブダペスト大学大学院数学科の科目内容も独学で追いついているのです。しかも、スイス連邦工科大学チューリッヒ校は普通の大学2倍の授業数で構成されているので、実質トリプルスクールの状態だったのです。

スイス連邦工科大学チューリッヒ校数学科のポリア教授は「彼は、私を怯えさせた唯一の学生だった」と述べ、講義で証明されていない定理を紹介すると、ノイマンは5分後に手をあげ、その定理の証明を書いたとノイマンの天才ぶりを語っています。

フォン・ノイマン(青年期)

フォン・ノイマン(青年期)

1925年、22歳のノイマンは、スイス連邦工科大学チューリッヒ校を卒業し、応用化学の学士を取得しただけでなく、ブダペスト大学大学院数学科も修了し、大学と大学院の両方を卒業しました。そして、1927年23歳のノイマンは、ベルリン大学の私講師になります。
1928年にノイマンとウィグナー共著で発表した論文は「原資のスペクトル線に一定の秩序があることをより根源的にヒルベルト空間の「作用素」の対称性から導いた」という内容で物理学界から注目を浴びました。この研究を続けてウィグナーは1963年にノーベル賞を受賞したので、1957年にノイマンが亡くなっていなかったら同時受賞していました
1928年~1929年にかけてノイマンは、数学、解析学、量子論、経済学といった分野で以下表のような論文を発表しました。ノイマンはこのころ、多くの分野で長年未解決だった問題をあっさり解いてしまったのです。彼は睡眠時間を4時間と決め、残りの20時間の大部分は考えることで、使い、残りをベルリンのキャバレーで飲むことに使いました。

集合論の公理化
可算合同部分集合の距離分割
対象作用素の固有値問題
代数的独立数の体系
ディラックの電子スピン理論に関する考察
ゲーム理論
一般集合論における超限帰納法による定義と関連問題」
戦略ゲーム理論
得るミート作用素の一般固有値理論
新しい力学におけるキルゴード理論とH定理の証明
線形変換群とその業源に関する解析的特徴
公理的集合論における整合性問題の矛盾
線形形式によるミンコフスキー定理の証明
関数作用素代数と標準作用素理論
一般測度理論
非限定的刷込理論

1930年までに32の論文を発表したノイマンは、26歳で結婚します。相手は6才年下の、幼馴染のマリエットです。マリエットの父は医学部教授で、マリエットは運転手付きの自家用車でパーティに出かけるようなお嬢様でした。そのマリエットにノイマンは「君と僕は趣味が似ている。例えば君も僕もワインが好きだ。さて、結婚しよう」と、全然ロマンティックな雰囲気ではなかったようです。
1932年ノイマン「量子力学の数学的基礎」で、量子力学をヒルベルト空間の連続幾何学で表現することによって、「行列力学」と「波動力学」の同等性を数学的に導き、量子力学を完成させました
1933年プリンストン高等研究所は、アインシュタイン、ヴェブレン、ワイル、アレクサンダー、ノイマンの5人の教授陣で発足されました。

プライベートでは、1937年にマリエットと離婚して、1938年8歳年下で、二度の離婚を経験しているクララ・ダンと再婚しています。

フォン・ノイマン(壮年期)

フォン・ノイマン(壮年期)

1940年、ノイマンは陸軍兵器局弾道学研究所の諮問委員に就任します。そこでは機密論文「逐次差分の発生確率の評価」で、標的に弾道を当てそこなった場合、次にどのような狙いをつければよいか確率計算する方法を示しました。現在の戦闘機から発射されるミサイルは、地上で動く人間を狙えるほど精度が高いですが、その方法もコンピュータ自動制御理論も、ノイマンの導いた原理に基づいているのです。
当時は大砲から一発の砲弾を発射するのに3000もの弾道候補が生じ、そこから最適な弾道を決定するには750回以上の微分計算が必要とされました。陸軍のアナログの「微分計析器」が使用されていたが、それでも一発の弾道を計算するために丸一日が費やされていましたそこでノイマンは陸軍にコンピュータの開発を急がせたのです。また同年には、
ノイマンは原爆開発プロジェクトである「マンハッタン計画」に招集されます。

1944年、ENIACと呼ばれるコンピュータの試作品をエッカートとモークリーが開発しましたが、誤作動を起こして装置全体がダウンしていました。それを見たノイマンはさまざまな改良点をアドバイスすることで、ENIACの計算速度は、毎秒300回から5,000回にまで向上しました。「これで、ようやく私の次に計算の早い機械ができた」と言いました。翌年1945年には、ENIACの後継機種EDVACでノイマンは「入力→中央処理装置→出力」とう現代のコンピュータの原形となるノイマン型アーキテクチャーを設計しました。中央処理装置には制御装置、算術論理演算装置、記憶装置(プログラム内蔵方式)で構成されています。これの何がすごかというと、これまでの機械は、時間を表示する、写真を撮るなど特定の目的しか果たせませんでした。しかし、現在のスマホのように1台の機械でソフトを変えれば多彩な目的を果たせるようになったのです。そのプログラム内蔵方式を初めて定式化したのがノイマンなのです

1945年、若い物理学者リチャード・ファイマンが非人道的兵器を開発する罪悪感に苛まれていることを聞き、「我々が今生きている世界に責任を持つことはない」と言いました。つまり、ノイマンの思想の根底には科学で実現可能なことは徹底的に突き詰めるべきという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、この世に普遍的な道徳や責任などないという一種の「虚無主義」があるのです。これこそ、ノイマンが「人間のフリをした悪魔」と言われるゆえんなのです
その後、ノイマンは「爆縮型」原爆という、原爆の威力を最大にするために、上空で爆発させる兵器を設計した。空軍の原爆投下のリストとして、「皇居、横浜、新潟、京都、広島、小倉」があげられていましたが、ノイマンは日本人の戦意を完全に喪失させるため、「歴史的文化価値の高い京都へ投下すべきだ」と主張したが、陸軍長官に却下されました。

また第二次世界大戦後は「アメリカが優位に立ってるうちに先制核攻撃をして、冷たい戦争を一気に終わらせるべき」と進言しました。ノイマンはなぜそこまでソ連を憎悪するのでしょうか?
原爆製造が完了した後、ロスアラモス国立研究所では、原爆製造に関する特殊技術の発明に関して「発明開示書」と呼ばれる機密書類にリストアップしました。この書類を作成する人物に、主要分野に精通し発明の内容を精密に分析できるノイマンとフックスの2人が選ばれました。つまりノイマンとクラウス・フックスは多くの研究者と共に原爆を製造し、その過程で生じた数えきれないほどの発明の詳細を話し合って、共著で機密書類をまとめました。しかし、そのフックスはソ連のスパイでした。ノイマンは信じ難い裏切りの念をソ連に向けたとされているのです。ちなみにフックスはソ連から400ドルしか報酬を受け取っておらず、筋金入りの共産主義者だった彼は、そうすることが人類のために正しいという信念に基づいて、ソ連に情報を流しました。

フックス事件以前は、大量の原爆でソ連に先制攻撃を仕掛ければ、ソ連の指導者が戦争の勃発にさえ気づかないうちに「ソ連を石器時代に戻す」ことが可能とみなされていました。1950年には、ソ連の主要都市と軍事施設すべてを同時に無力化するために必要な原爆、292発を保有することができました。その矢先に、フックス事件が起きたのです。
その後「アメリカの奇襲攻撃は、生き延びたソ連人の強い結束で、第三次大戦が長期化するようになり、アメリカは勝ちきれない」と判断し、トルーマン大統領は「水素爆弾」の開発を科学者たちに命じました。「水素爆弾」とは「核融合エネルギー」、すなわち「小型の太陽」を創り出す爆弾で、これなら数発程度で、ソ連を無力化できます。当時原爆開発に積極的に関わった科学者たちも水素爆弾は「人類に対する邪道」、「すべての生命を消滅させてしまう」と批判的でした。

フォン・ノイマン(晩年期)

フォン・ノイマン(晩年期)

1955年、ノイマンは、左肩の激痛により倒れました。診断の結果、左肩鎖骨に腫瘍が発見されました。何度か立ち会った核実験んで浴びた放射線が、癌の原因と言われています。ノイマンが臨終に近づくと、鎮痛剤によってうわ言をいうようになったため、軍の機密を口走らないように監視がつきました。そして1957年2月8日、逝去しました。

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コメント

  1. アキロン より:

    アインシュタインと、ムーアは量子力学の見解で意見が違ったと言います
    アインシュタインは「誰も見ていなければ月が存在しないかも知れないなんて信じられるか」と言う立場で、ムーアは、逆の立場だったと聞いています。
    ノイマンはどっち派だったのでしょうね?興味ありますね

    • しびたん より:

      コメントありがとうございます。おそらくニールス・ボーアとの論争のことだと思いますが解説します。
      アインシュタインは「地球の周りを月が回っているように、原子核の周りを電子がまわっている。電子が確率的にしか存在しないなんておかしい」とボーアの確率解釈を否定しました。
      ノイマンはボーアと同じ意見で、さらに「人間の意識が量子的状態を収束させる」という「ノイマン・ウィグナー理論」を提唱しました。
      つまり、電子は確率的に存在して、人間が意識した瞬間に電子が場所や速度が特定できるという、ボーアの主張を少しアレンジしたのです。
      しかし、ここでいうノイマンの意識はすごく曖昧な言葉で、ノイマンはそれ以上物理現象の解釈には立ち入りませんでした。

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