マリー・キュリーの生涯|隠された放射線の害

ノーベル賞 自然科学

「キュリー夫人に生い立ちについて知りたい マリー・キュリーは何でノベール賞を取ったの? マリー・キュリーの研究内容を知りたい。 ラジウムって体に悪いの? 物理学って何だか難しそうだな…

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

ポーランド生まれのマリー・キュリーは、夫ピエール・キュリーと結婚したことからキュリー夫人と呼ばれており、「放射現象に関する研究」と「ラジウムの発見」でノベール賞を2度受賞しています。詳細は本記事に解説します。

本記事の参考文献

さらにマリー・キュリーを知りたい方
↓高校生から大人までオススメ↓

Tiktokの1分解説

マリー・キュリーの光の部分を1分解説

キュリー夫人を1分解説本記事の内容

1.マリー・キュリーの生涯

女性初のノーベル賞受賞者であり、ノーベル賞を世界で初めて2回受賞したことで有名なキュリー夫人ことマリー・キュリーの生涯を「1.誕生」、「2.研究」、「3.死別と不倫」、「4.晩年」ごとにそれぞれ解説します。

1.マリー・キュリーの誕生(1867年~1895年)

マリー・キュリーの誕生

マリー・キュリーが生まれた1867年のポーランドは、ロシア、オーストリア、プロイセンによって分割統治されていて、マリーの居住区はロシア領でした。マリーを含む当時のポーランド人は愛国心が強かったですが、母国語や母国の歴史を学ぶことはロシア政府により禁止されていました。
当時のヨーロッパでは女性差別があり、女性が怒りや競争心は「女らしくない」として、許されたなかったのです。しかし仲間内でロシア対する怒りや、競争心を表すことだけは許されていました。そのような社会なので、当時ポーランドでは女子が大学入学の資格を持つことはできず、マリーは移動大学という秘密の教育組織で科学を学びます。
その後、マリーの姉ブローニャにパリへ呼ばれ、パリのソルボンヌ大学に通います。夫ピエール・キュリーとはこの時期に出会ったのです。マリー・キュリーとピエール・キュリーは1895年に結婚し、2人の間には娘にも恵まれまれます。マリー・キュリーは毎日娘の体重を記録するほど子煩悩でした。

2.マリー・キュリーの研究(1896年~1903年)

マリー・キュリーの研究

結婚した2人は共同研究を行います。しかし、その研究は夫ピエール・キュリーが「不可能だ」と言うほど、根気がいる実験でした。体調を崩しながらも毎日実験を繰り返した2人は、ラジウムとポロニウムを発見し、1903年(マリー36才)に「放射現象に関する研究」でノーベル物理学賞を受賞します。当時ラジウムはがん治療に役立つと言われていたので「人類を救う」という期待感や、マリーは世界初の女性の受賞者ということ、そして夫婦の苦労話といった話題性から世界中で注目を集めました。その結果、当時「大金を出す賞」で有名なノーベル賞を「世界的に名誉ある賞」に変えたのです。

↓マリーの実験内容(読み飛ばしOK)↓

マリー・キュリーはどのような実験を行ったかというと、8トンものピッチブレンドという石を鉄鍋の中でかき混ぜたのです。というのも、放射能を最初に発見した物理学者アンリ・ベクレルは、ウランから勝手にエネルギーが放射され、おまけに質量の減少もしないことを発見しました。ベクレルはこれをウラン元素固有の性質としました。そこでマリーはウランより強い放射線を出していたピッチブレンドという石と、その他の元素の放射線を比較して、ピッチブレンドは他の物質より明らかに強い放射線を出していることから、ウラン以外にも放射線を出す元素がある、すなわち新元素があると予想していたのです。その予想が的中して「ラジウムの発見」となったのです。
1トンのピッチブレンドからとれるラジウムのは0.1gしかとれなかったので、マリーは8トンものピッチブレンドという石を鉄鍋の中でかき混ぜざるを得なかったのです。

3.マリー・キュリーの死別と不倫(1904年~1911年)

マリー・キュリーの死別と不倫

マリー・キュリーはその後、娘をもう一人授かります。一見、順風満帆のように見えますが、その幸せは長くは続きませんでした。
夫ピエール・キュリーは馬車に轢かれて他界してしまいますマリーは錯乱状態になり、姉部ブローニャの前で亡くなった夫の腐った脳髄に口づけをするほどでした。
しかし数年後、マリーは既婚者のポール・ランジュヴァンと恋に落ちます。ポールは物理化学学校の教授を務めていて、アインシュタインに「私がいなければ彼が相対性理論を発見していただろう」と言われる程の人物でした。もちろん、そんな関係も長くは続かず、マリーからポールに当てた手紙がマスコミに漏れてしまいます。この不倫騒動でマリーは投石されるなど、パリ中からバッシングを食らいます。特に女性外国人であるマリーが、パリの大学教授のポストを奪っていることから、余計に国民は感情的になりました。
そんな渦中、1911年に「ポロニウムとラジウムを取り出した」業績として、世界初の2度目のノーベル賞を受賞します。「ノーベル賞受賞を辞退しろ」と国民から批難を浴びましたが、マリーはノーベル賞を受賞しました。

4.マリー・キュリーの晩年(1912年~1934年)

マリー・キュリーの晩年

1914年、オーストリア皇太子夫妻が撃たれ(サラエボ事件)、第一世界対戦が勃発します。
戦場で負傷を負った兵士の治療に役立てるため、マリーは即席の学校を作り、女性たちに科学や医学の初歩を教え、有能な女性レントゲン技師を育成します。マリー自身も戦場に行くことがありました。その後、1918年に終戦を迎え、マリーの祖国ポーランドは独立します。マリーの子供の頃からの念願がかなったのです。
その後、1934年(マリー・キュリー66歳)放射線被爆による白血病で、マリーは他界しました。

マリー・キュリーの娘イレーヌ・キュリーも「人工放射性元素の研究」で1935年にノーベル賞を受賞しています。

5.マリー・キュリーの知られざる放射線の害

マリー・キュリーの知られざる放射線の害

マリーの夫ピエールは馬車で事故死しましたが、実はすでに放射線に犯されていて、いつも体調は悪かったのです。ピエールの「原因不明の痛みの発作に襲われ、すぐに疲れてしまう」という記録があったり、2人の指先はいつも火傷のような跡がありました。

放射性物質が生物の体に影響を及ぼすとドイツの論文を見て、ピエールは自分の腕を何時間もラジウムにさらして、人間の皮膚がどのくらい破壊されるかを調べたこともありました。

ラジウムは時計塗料として蛍光塗料として使われ、作業員(ラジウムガールズと呼ばれた女性達)が癌で次々と死亡する事故がありました。
その他にも、当時ラジウムは癌に効くというイメージから、入浴剤、歯磨き粉、クリーム、チョコレートなどに含まれて売られており、多くの犠牲者を出しました。
マリーの周囲でも次々と犠牲者がでていました。その中には複数の助手や、日本人留学生など様々です。しかしマリーは死因と放射線の関係を追究しようとはしません

マリーの娘であり、ノベール賞受賞者のイレーヌ・キュリーも1956年、放射線被爆による白血病で亡くなっています。

さらにマリー・キュリーを知りたい方
↓高校生から大人までオススメ↓

↓さらに物理学について知りたい方は↓

コメント