【簡単】天才か変態か|南方熊楠の生涯を解説

天才か変態か|南方熊楠の生涯を解説 生物
【簡単】天才か変態か|南方熊楠の生涯を解説

「南方熊楠って誰? 南方熊楠の生涯を知りたい。 南方熊楠は天才なの? それとも変態なの? 生物って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

南方熊楠(1867-1941)は権威あるイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に論文が掲載された回数1番多い日本人です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

南方熊楠の生涯

南方熊楠の生涯

南方熊楠(みなみかたくまくず:1867-1941)は今の和歌山県で生まれ、幼い頃から神童とされており、抜群の記憶力を誇っていました。例えば8歳の頃、蔵書のある友人の家へ訪れ、熊楠は書物を読みふけります。そして帰宅してからその暗記したものを書き写すことを行っていたのです。熊楠は記憶力だけではなく、語学の天才でもあり、生涯で18ヵ国語に通じていたと言われています。ちなみに熊楠は「その土地の居酒屋に行って会話を聞くとどの土地でもたいてい会話の内容は一緒なので自然と言葉を覚えられる」、「対訳本を一冊も読めばたいていの言葉は理解できる」と述べています。
大学予備門(現東京大学)時代の同級生に夏目漱石、正岡子規などがいました。しかし、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類採集に熱中したため落第して退学してしまいます。そしてアメリカに渡りますが、そこでも2度にわたって中退します。
熊楠は粘菌という生物にフォーカスを当てます。粘菌(変形菌)とは胞子によって繁殖するという植物的性質を持ちながら、微生物を摂食するという 動物的性質を兼ね備えているのです。ちなみにイギリスの『ネイチャー』誌とアメリカの『サイエンス』誌は科学学術誌の最高位と言われており、これらの雑誌に論文が掲載されることは科学者にとってはステータスなのですが、南方熊楠の粘菌などの論文は『ネイチャー』に生涯で約50回も掲載されており、掲載された回数は日本人で1番多いのです。
その後、熊楠は南米に渡り、サーカス団に入ったり、菌類の採集に励みました。他にも熊楠はイギリスに渡り大英博物館で研究を続けました。
熊楠の研究は昭和天皇にも評価されていました。昭和天皇は宮中に生物学研究所を設立するほどの学問好きだったため、あるとき南方熊楠という人物を知り、彼の進講(天皇の前で学問を講義すること)を希望しました。熊楠は昭和天皇に粘菌などに関するご進講を行い、予定していた講義時間が過ぎていたのですが昭和天皇の要望で30分も進講が延長されました。進講後はキャラメルの空き箱でつくった粘菌の標本を献上します。
そんな熊楠は40歳のときに、神社の社司で漢学者の娘であった28歳の田村松枝と結婚しました。屋根の上に登って布団干しをしている松枝のことを、「うちの女房は、屋根の上にあがれる」なんてことまで周りに自慢したくらい愛妻家でした。その後、子供にも恵まれ平凡に暮らしますが、74歳で萎縮腎を患い亡くなってしまいます。

南方熊楠の逸話

南方熊楠の逸話

南方熊楠の有名な逸話に「1.日本初のエコロジスト」、「2.男性器に殺虫剤」があります。それぞれを解説します。

日本初のエコロジスト

エコロジー(エコ)という用語を日本に初めて取り入れた熊楠は、当時の神社合祀令(国を挙げて神社を統廃合する法令で、三重県の神社の数は1/7、和歌山県は1/5に激減したたけでなく、森林を伐採してお金にされていた)に対して、エコロジーという言葉を使って合祀反対運動を繰り広げました。

男性器に殺虫剤

これだけ凄い人であるからこそ、やはり奇人としても名高いのでもあります。酒癖は悪いし、暴力事件はたびたび起こすし、暑いからという理由で基本的に裸でいる熊楠は男性器の中にダニが入ってしまいました。腫れ上がって熱くてかゆくてたまらないので、殺虫剤を尿道に吹きかけました。すると当然、熊楠は絶叫して庭を転がり回り、当時の痛みを「均け火箸を突っ込まれたような痛み」と表現しています。熊楠は「信じられないくらい大きくなった」と、その男性器を測定しました。

喧嘩の武器はゲロ

熊楠は食べたものをいつでも吐き出せるという牛のような特技を持ってました。その特技を生かして、中学の時は喧嘩相手の顔にゲロを飛ばして戦ったため、負けたことがなかったようです。ちなみにロンドンの日本大使館にはゲロの跡がありました。これは熊楠が酔っぱらって町中で立小便をして公使に怒られて際に吐いたからです。

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