マンフレッド・ヒョップナー|ドーピングと金メダル

マンフレッド・ヒョップナー|ドーピングと金メダル 自然科学
マンフレッド・ヒョップナー|ドーピングと金メダル

「マンフレッド・ヒョップナーって誰? ヒョップナーの生涯を知りたい。 ドーピングの歴史を知りたい。 東ドイツの歴史は? 東ドイツが人体実験をしたって本当? 科学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

マンフレッド・ヒョップナー(1934-)は「国家計画14・25」という東ドイツ政府が極秘に進めた、「禁止薬物による競技エリート育成の国家政策」で、約15,000人の選手に薬物投与に関与しました。詳細は本記事にて解説します。

本記事の内容

マンフレッド・ヒョップナーの生涯

マンフレッド・ヒョップナー|ドーピングと金メダル

マンフレッド・ヒョップナー(1934-)は「国家計画14・25」という東ドイツ政府が極秘に進めた、「禁止薬物による競技エリート育成の国家政策」で、約15,000人の選手に薬物投与に関与しました。そんなヒョップナーの生涯を「1.少年期」、「2.ドーピング時代」、「3.衰退期」に分けて解説します。

少年期

マンフレッド・ヒョップナーは一九三四年、ナチス政権下にあったドイツにある高級磁器の生産で知られる小さな町で生まれました。当時のドイツは、世界の科学を牽引しており、1901年から1941年までのノーベル賞の取得数は、ドイツが35個で1位、アメリカは13個で2位とドイツはダントツの先進国だったのです。
ヒョップナーが2歳(1936年)になるとドイツの総力を結集してベルリンオリンピックを実施しており、オリンピックは単なる国際スポーツ大会ではなく、ナチス政権の威信を内外に知らしめる大国家プロジェクト でした。初めて実施された聖火リレーやテレビ中継など、現在のメディアイベントとしてのオリ ンピックの原型は、このときに築かれたのです。
ヒョップナーが5歳(1939年)の時、第二次世界大戦の勃発し、そしてヒョップナーが11歳(1945年)になるとドイツの敗戦によって母国が連合国の占領下に置かれました。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四か国に国土を分割統治される戦後の混乱期に、彼は思春期を迎えたのです。
15歳(1949年)の時に、ドイツは東西に分かれた分断国家として独立し、ヒョップナーの暮らすソ連占領区域は、新たな社会主義国、ドイツ民主共和国(東ドイツ)として再出発を果たしました。 その体制は、表向きは反ファシズムを掲げた複数政党制ながら、事実上はスターリン支配下のソ連と同様、一党独裁型の全体主義国家だったのです。
ヒョップナーは19歳(1953年)になると、 東ドイツの名門カール・マルクス大学の医学部に進学し、スポーツ医学を学び始めます。
東ドイツと西ドイツは、オリンピックに際して合同選手団を結成していましたが、東京オリンピック(1964年)以降は別々の国としてオリンピックに参加します。この頃、ヒョップナーは政権党であるドイツ社会主義統一党に入党し、新設されたばかりの東ドイツスポーツ医学研究所で陸上競技連盟の専門医となり、さらにわずか3年後の 1967年(33歳)、東ドイツスポーツ医学研究所の副所長に抜擢されました。
なぜヒョップナーがこの若さで抜擢されたかというと、医学的なケアだけでなく、ドーピングを使って選手の成績を上げたからです。

ドーピング時代

東ドイツでは、経済的困窮や秘密警察(シュタージ)の監視から逃れるため、建国以来およそ200万人もの人々が西ドイツに逃亡しており、人口わずか1600万の旧敗戦国・東ドイツが国際舞台で存在感を示すための限られた手段として、スポーツは決して蔑ろにできない分野だったのです。
メキシコシティーオリンピック(1968年)の開催年、東ドイツはヒョップナーの指揮下で極秘のドーピング実験を行いました。
最初の被験者になったのが、女子砲丸投げのマルギッタ・グメル選手でした。女性が選ばれたのは、筋肉増強剤トリナボール(筋肉増強剤、過剰に摂取すると 肝機能障害などの内臓障害や、筋肉硬直、運動障害といった強い副作用をもたらす)が男性ホルモンから作られているため、より高い効果があると考えられたのです。結果、彼女は毎日2粒のトリナボールを飲み、11週間で記録を10メートルも伸ばしました。その後ヒョップナーは、他の選手にもトリナボールを投与することを指示しました。
そして10月、メキシコシティーオリンピックが開幕するとグリルは世界記録更新し、9個の金メダルを獲得するのです。前回のオリンピックで東ドイツ出身の選手が獲得した3個から大きく飛躍しました。
4年後の1972年、ライバルの西ドイツで開催されたミュンヘンオリンピッ クでは、東ドイツは前回から倍増となる20個もの金メダルを獲得し、メダル総数はソ連、 アメリカに次ぐ三位となりました。
東ドイツでは我が国の選手がい くつメダルをとれるか、その話題で持ちきりでしたが、裏で何が起きていたのか、誰も知りませんでした。
その二年後、ドーピング薬剤の蔓延に危機感を覚えたIOC(国際オリンピック 委員会)は、トリナボールをはじめとするアナボリックステロイド(筋肉増強効果のある ステロイドホルモンの総称)を、禁止薬物に指定しました。
この事態を受けて、1974年に東ドイツ政府が立ち上げたのが、「国家計画14・25」 だったのです。 その概要は、薬物を投与する選手の選定から新薬の研究開発、投与方法、そのすべてを科学者が徹底管理します。さらに8歳以上の全国の有力選手すべてに薬物を投与されました。
ドーピング検査で陽性にならないよう、ヒョップナーらはドーピングの隠蔽技術「マスキング」を開発しました
トリナボールは使用をやめてもおよそ二週間、尿検査で陽性反応が出てしまうため、 トリナボールの使用を大会二週間前でやめ、その効果を持続させることができる「男性ホルモン「テストステロン」を投与したのです。テストステロンはトリナボールより効果は弱いが、大量に投与すれば筋肉増強作用 があることを突き止めた。この性質を利用し、大会二週間前からはトリナボールをテスト ステロンの注射に切り替えることで、効果の減少を最小限に抑えながら検査で陽性反応を 出さないことに成功したのです。
1976年のモントリオールオリンピックでは、東ドイツの金メダル獲得数は、40個へと躍進し、ソ連に次 ぐ二位となりました。
しかし、この大会で女子競泳選手たちの声が異様に低いことがメディアに取り上げられ、 ドーピングによる副作用ではないかと話題になりました。
実はヒョップナーは実験段階から 「筋肉増強剤の使用は多くの女性、とりわけ水泳選手の健康被害を引き起こしており、例えば男性化による体毛の増加、変声、性欲障害がある」ことをわかっていました。
ヒョップナーは、こうした副作用を知っていながら、まだ10代の幼い選手たちにも「こ れを飲めば強い選手になれる」と言い聞かせ、ビタミン剤と称して筋肉増強剤を与えていましたが、選手たちは、副作用はおろか、自分がドーピングをしていることさえ知らされていなかったのです。
さらに1980年、ヒョップナーたちは、筋肉が増えても体重はあまり変わらず、スリムな体型を保つこ とができるドーピング薬「STS646」を開発します。 STS646は、体重を増加させてはいけない種目(女子 の体操選手、棒高跳びなどの跳躍競技、体重による階級がある競技など)にうってつけでした。
1980年のモスクワオリンピックでは、過去最多の金メダル47個、メダル獲得総数は126個を獲得しました。
1983年、IOCは「ドーピングをしていない人間の尿では、テストステロンとエピテストステロンの比率は、一対一から多くても六対一の間に収まる。 この比率が六対一を超えるとドーピングと見なす」という基準を設けました。つまりSTS646のような成分にテストステロンを含んでいる薬を摂取すれば確実に六対一を超えてしまうのです。しかし、ヒョップナーはドーピングでテストステロンが増えるのなら、人工的にエピテストステロンも増やせば、六対一の比率の内に収められるのではないかと考えたのです。

衰退期

1989年、ベルリンの壁が崩壊。東西ドイツが統一に向かうなか、国家ぐるみのドーピングの 発覚を恐れた旧東ドイツ政府は、関係書類の処分を急いだ。しかし、わずかに機密文書が残っていました。それを見つけ出し、この国家計画は告発されました。
ドーピング被害にあった人の90%がなんらかの思い後遺症に悩まされており、1986年に女子砲丸投げのヨーロッパ選手権で優勝したアンドレアス・クリーガーは、長年にわたる筋肉増強剤の使用で男性化が進み、性転換を余儀なくされました。 今は名前も変え、完全に男性として人生を送っているのです。
また元バレーボール選手のアリアーネ・シュペックハーンは危篤状態に陥ったこともありました。 彼女の身体はドーピングの影響で副腎の機能が低下し、ホルモンの生産や分泌ができなくなってしまっていた。現在は、薬でそれを補っている。朝、昼、晩と大量の薬を服用し続けないと、命に危険があるのです。
結局、ヒョップナーに下された判決は、禁固刑一年六か月、執行猶予二年。刑務所に入ることはありませんでした。ガイペルは、このときヒョップナーのとった行動に驚いた。 「判決が読み上げられたときのことを覚えています。ヒョップナーが私のところにきて、『あなたはまだ若い。新しく出直しなさい』と言ったのです。

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