ノーベル賞を6つ受賞していた科学者|ファラデーの生涯

ノーベル賞を6つ受賞していた科学者|ファラデーの生涯 化学
ノーベル賞を6つ受賞していた科学者|ファラデーの生涯

「ファラデーって誰? ファラデーの生涯を知りたい。 ノーベル賞があったら6個もとってたって本当? 科学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士の筆者が答えます。

結論

マイケル・ファラデー(1791~1867)はもしその時代にノーベル賞があったら、6個は受賞していただろうと言われる科学者です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

ファラデーの生涯

ファラデーの生涯

ファラデーの生涯について、下積み時代と科学者時代をそれぞれ解説します。

少年時代

マイケル・ファラデー(1791~1867)は極貧の家庭で生まれました。父は病気がちの鍛冶職人で、生活保護を受けていました。9歳のファラデーは親から一塊のパンをもらって、一週間をしのいだこともあるくらいです。小学校もまともに通うことができず、13歳のときから家計のために製本屋で徒弟として働き始めます。
当時、本は高価だったのですが、ファラデーはそのような本を無料で読めるような環境だったので、科学の本を読みあります。さらに製本屋の客の一人が、ファラデーの科学への傾倒ぶりに感心して、王立研究所デーヴィ(元素を8個も発見した人)の講演チケットをプレゼントしたのです。その後22歳の時、ファラデーは詳細なノートを作り、図を入れ、着色までして綺麗に製本します。これを当時王立協会会長ジョセフ・バンクス卿に送り、科学関係の求職をするのですが、無視されてしまいます。あきらめないファラデーは今度、デーヴィの講義の本を作り直し、 今度はナイトの称号を受けたばかりのデーヴィ自身に送りました。デーヴィはこの本に感心し、ファラデーと会うことにします。しかし、デーヴィはこのときファラデーに「科学で身を立てていくことは金銭的に難しいから、製本業の方が良い」と忠告します。その直後、王立研究所の実験補助員が トラブルを起こしてクビになったので、ポストが空きました。その時デーヴィはファラデーを思い出して、ファラデーを採用することにします。

研究者時代

最初デーヴィは「試験管洗いくらいには使えるだろう」という期待しかもファラデーに持っていなかったのですが、次第にファラデーの素質に気づき始めます。、そして、フランス科学アカデミーから評価されたデーヴィは大陸旅行に出かけるのですが、英仏戦争が理由で召使いが同伴しなかったことから、ファラデーを同行させます。ファラデーは著名な科学者に会えたり、デーヴィに指導をしてもらったり、この旅行で大きな収穫を得ました。
その後、ファラデーは「ベンゼンの発見」、「塩素をまじめとする気体の液化」、「電磁誘導の発見」、「電気分解の法則の発見」、「ファラデー 効果」、「半導体の発見」などノーベル賞のある時代だったら6つは受賞しているだろうと言われるくらいの実績を残しています。「ファラデー」と「ファラド」と2つの単位の名前が使われているのはファラデーのみなのです。
ファラデーが王立協会会員に推薦されたとき、師デーヴィが辞退するように迫り、この出来事が二人の師弟関係を崩れました。学者としての成功に伴い、貴族の身分や王立協会会長というポストを得た師デーヴィとは対照的に、ファラデーは世俗的な栄誉を避け続けました。例えば「王立協会会長への就任を3度も就任を要請されたのですが、すべて辞退」、「年金提供の申し出を辞退したが国王ウィリアム四世も巻き込む騒ぎになったため、年金を受け取る」、「ヴィクトリア女王からの邸宅提供を、修繕費が払えそうにないからと辞退したが、結局修繕費は女王持ちで受け取る」、「ナイトの称号の授与を断る」などを行ったのです。
なぜファラデーが世俗的な栄誉を避けたかというと、キリスト教の宗派であるサンデマン派の教義が原因とされています。サンデマン派は、俗な栄誉を否定してたからなのです。そしてファラデーの「最後までただのマイケル・ファラデーでありたい」というセリフと生涯は今でも語り継がれているのです。

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