【簡単】デカルト|我思う故我あり(哲学の第一原理)

デカルト|我思う故我あり(哲学の第一原理) 哲学

「デカルトって誰? 方法序説って何? 我思う故我あり(哲学の第一原理)とは? 神の存在証明について知りたい。 哲学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に経営学修士(MBA)の筆者が答えます。

結論

ルネ・デカルト(1596~1650)とは、合理主義哲学の祖であり、「我思う故に我あり」というセリフが有名なフランスの哲学者です。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

デカルトとは

ルネ・デカルト(1596~1650)とは、合理主義哲学の祖であり、「我思う故に我あり」というセリフが有名なフランスの哲学者です。デカルトは哲学だけなく、2つの数字で平面上の位置を表すデカルト座標を考えた数学者でもあります。

デカルト誕生以前の世界

みなさんは5世紀から13世紀のまでの間の数学者や哲学者をご存じでしょうか?多くの方は答えられないと思います。実はこの頃、ローマカトリック協会によって「真理を追求するのは人の仕事ではない。真理は神によって司られており、それを民衆に示すのは神と対話できる聖職者だけである」という社会秩序がつくられ、ヨーロッパでは長期的な知的退行が起こっていたのです。
その後、17世紀のヨーロッパではルネッサンス(古代の文化を復活させようとする運動)や宗教改革(教会が免罪符を売るのはダメだろという運動)が起こり、教会の権威が次第に弱まっていきました。そこで科学や数学などが発展していったのです。

方法序説

古代ギリシャのピュロン(B.C.360-270)は「同じものでも存在の現れ方は様々だから、どれが本当かは判断できない。だから断定を避け探求を続けよう」と述べたのです。例えば仕事終わりのビールを美味しいですが、熱が40度もあり、寒気がする時にキンキンに冷えたビールはあまりおいしくないでしょう。この場合どちらが本当のビールかを判断せず、考え続けようとするのです。
デカルトが生きた時代は30年戦争という、カトリックとプロテスタントが信仰や教義について争っていた時代です。そんな中デカルトは『方法序説』を執筆しました。

『方法序説』では「我思う故に我あり」という命題を置くことを提案しています。これはどういうことかというと、例えば数学では「三角形の内角形の内角の和」という定理は「平行線は交わらない」、「直角は等しい」などの5つの命題(公理)を出発点にして導き出されたものとうことが明らかになっています。そこでデカルトは「哲学にも出発点となる公理があるんじゃね?」と考えたのです。
デカルトは「今見えているリンゴは本当に見えているんだろうか…」、「あのリンゴは悪霊が俺に見せているのではないか…」と懐疑し続けました。
何もかもを疑ったデカルトは「疑っている俺の存在って実在してるじゃないか!」とひらめいたのです。「たとえ悪霊が俺に幻覚を見せていても、幻覚を見る対象がいないと幻覚は見れないから、やっぱり俺の存在って絶対だ!」と思い、自分の存在という真理にたどりつきました
ただし、デカルトは「1.考えている私の存在は疑いえない」という発想まではよかったのですが、そこから神の存在証明をしようとしたのは少し無理があるように思えます。デカルトが神の存在証明をしようとしたプロセスを以下に記載します。

  1. 考えている私の存在は疑いえない。
  2. 考えている私の中にある観念もまた疑いえない。
  3. 観念には「モノ」「動物」「人間」「神」の四つがある。
  4. これらを完全性という観点で評価すると「モノ<動物<人間<神」となる。
  5. より不完全なものはより完全なものの原因たりえない。
  6. 2より「神の観念」の存在は疑いえず、また5より「神の観念」の原因は人間足りえない。
  7. したがって「神の観念」の原因は人間より完全な神だけである。
  8. よって神の存在が証明される。
    出展:山口周『武器としての哲学』

このようにデカルトによる強引な論理展開は当時から批判されており「教会を恐れて無理やり神は存在すると結論付けたのではないか」といった説もあります。また同世代パスカルは「デカルトは方法序説を本当は神なしで済ませたかったんじゃないの?」と述べています。

機械論的自然観

デカルトは精神と物体(体)を完全に分離する物心二元論の立場から機械論的自然観を提唱しました。機械論的自然観とは世界は大きな機械であり、そこにあるのは運動の必然的な因果関係であることで、簡単にいうと動物一種の機会であり、死は機械の故障に過ぎないのです。ただし、デカルトの物心二元論では精神と物体が独立しているため、互いに相互作用を考えることができないのです。ところが私たちは体を動かそうとすると動かせるという矛盾をデカルトは解決できませんでした。

ちなみにデカルトは宇宙は微細な物質エーテルに満たされていると考えました。しかし、エーテルはマイケルソン&モーリーによって否定されています。

フッサールの批判

デカルトの第一原理に対して多くの批判がありました。例えば「私というものは、明日も明後日も全く同じ私なのか?」といったような批判です。確かに現代科学でも人間の細胞は日に日に入れ替わっており、今日の自分が明日の自分とは限らないので「我思う故に我あり」という言葉に違和感を感じると思います。そこでフッサール(1859-1938)は意識作用は正しいだろうと考えました。例えば目の前に本があるとします。ここにある本は本当に本なのかどうかわかりません。しかし、本と感じてしまう事実はあるのです。このように見えてしまう、聴こえてしまう、感じてしまうといったことを意識作用といい、この事実は疑えないだろうとフッサールは述べたのです。

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