【簡単】ダーウィンの生涯|進化論を解説

ダーウィンの生涯|進化論を解説 生物
【簡単】ダーウィンの生涯|進化論を解説

「ダーウィンって誰? ダーウィンの進化論を知りたい。 進化論はダーウィンが最初じゃないの? 哲学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に経営学修士(MBA)の筆者が答えます。

結論

ダーウィン以前に進化論を提唱した人物はいましたが、進化論の中でもダーウィンは自然選択説を最初に提唱しました。詳細は本記事にて解説します。

本記事の参考文献

本記事の内容

ダーウィンの生涯

ダーウィンの生涯

ダーウィンの生涯を「学生時代」と「研究者時代」に分けてそれぞれ解説します。

学生時代

チャールズ・ダーウィン (1809-1882)は父と父方の祖父が医者、母方の祖父は「英国王室御用達の陶器業の創始者」という裕福な家庭で生まれました。後にダーウィンの息子たちも、長男は銀行家、次男と三男はケンブリッジ 大学の教授となるという華麗なる一族なのです。
ダーウィンの幼少時代の学校での評価はいまいちで、校長に全校生徒の前で叱られたこともありました。というのもダーウィンは学業そっちのけで、昆虫採取や貝や封筒のシールといった様々なコレクションに熱中していました。
父親はダーウィンを跡継ぎにしようと、エジンバラ大学の医学部へ進学させたのですが、ダーウィンは外科手術の実習で、二度も逃亡してしまいます。当時の外科手術は麻酔がなかったので、苦しみに耐える患者を見てられなかったのです。さらにダーウィンは「父親が莫大な遺産を残すこと」を知っていたので、医師になる意欲はあまりありませんでした。従ってまずは大学の講義をさぼり、ひとりで博物館に通い、所蔵されている標本などから興味のある博物学を学びます。そのことがきっかけでダーウィンはエジンバラ大学の解剖学の講師や、博物学の准教授と知り合い、個人的に教えを乞うことになります。 見かねた父はダーウィンを退学させ、ダーウィンを牧師にするためにケンブリッジ大学の神学部へ入れました。当時の博物学の最高峰だったケンブリッジ大学で、ダーウィンは博物学者ヘンズローに出会い、教えを乞うことになります。そして膨大な博物学的知識を得た後、無事に神学部を卒業することになります。

研究者の時代

ケンブリッ ジ大学卒業の年、海軍の測量船ビーグル号の調査員として、ダーウィンはヘンズローからの推薦を受けました。この件に関して父親はもちろん大反対しましたが、叔父から「博物学の研究は牧師としての将来のじゃまにはならない」とフォローしてもらい、5年間もの間、航海することになります。
この航海で世界各地の生物や植物を採集したという経験はのちの彼の進化論の構想に貢献しました。航海を終えたダーウィンは、ロンドンに住居を構え、採集した試料の整理に忙殺されます。
ダーウィンは航海中に、ヘンズローに観察記録などを送っており、ヘンズローがそれを学会で発表していたため、ダーウィンの名は学者たちの間で少しずつ認知されるようになっていました。またダーウィンは自分の名をより有名にするために、一流の科学者たちと交流し、執筆した『ビーグル号航海記』を広範囲の著名な人に渡しました。
ある日、ダーウィンはロンドンでの多忙な日々を送っていましたが体調不良に悩まされたことと、彼の進化論の構想をじっくり練りたいという思いからロンドン郊外への転居を決意します。
その後、王立協会会員となったダーウィンは29歳でひとつ年上の従妹エマと結婚して、10人の子供を生みます。ダーウィン夫妻は両方の実家が裕福で支援してくれるので、生活の糧のために働く必要がありませんでした。そのためダーウィンはひたすら以下のスケジュールを規則正しく繰り返し、『種の起源』の完成を目指しました。

  • 7:00 起床
  • 7:45 朝食
  • 8:00 研究
  • 9:30 手紙を読む
  • 10:30 研究
  • 12:45 家族と昼食
  • 15:00 エマに本を読んでもらう
  • 16:00 散歩
  • 16:30 研究
  • 18:00 エマと過ごす
  • 19:30 夜ごはん
  • 22:00 就寝

しかし、ダーウィン49歳の時、4年間の調査航海から帰ってきた無名の博物学者A・R・ウォレスが2日間でまとめた論文調査航海の結果(草稿)を尊敬するダーウィンに送ると、ダーウィンの事態は一変します。なんとそのウォレスの内容はダーウィンが長年でたどり着いた結論と同じ内容だったのです。ダーウィンはその年のリンネ学会でダーウィンとウォレスの共著で進化論が公表されます。その後もダーウィンはウォレスの二番煎じにならないように17巻の構想を練っていた『種の起源』を抜粋して翌年に急遽出版して「出版の先取権」をとろうと必死になりました。
晩年のダーウィンは疲れやすいくなっていたものの研究を辞めませんでした。その後心臓に痛みを覚えるようになり、1882年に死去しました。

『種の起源』(ダーウィンの進化論)について

種の起源(ダーウィンの進化論)

進化論のように生物が時間をかけて変化をしていくという概念は、ダーウィンが初めて思いついたのではなく、1801年にフランスの博物学者J=B・ラマルクがすでに提唱していました。ラマルク以前は「創造論」という「神様がいろんな動物の種類を作ったから、こんなに多様な動物が存在する」という考えが主流でした。しかしラマルクは「獲得形質の遺伝」という「個体が生きている間に獲得したものは、生殖で遺伝する」という理論を提唱しました。つまり「いろんな種類の動物がいるのは進化の過程で起きた」ということを提唱したのです。しかしダーウィンは獲得形質の遺伝に対して「事実にもとづく実験やデータが乏しい」とを否定して「自然選択説」を提唱しました。「自然選択説」では種は突然変異して、それが自然に適応できたら生き残るし、適応できなかったら淘汰されてるという、まさに「ダーウィンの進化論」となるのです。もちろん獲得形質の遺伝は現在では否定されており、 ダーウィンの自然選択説が正しいとされています。

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